キーボードのない未来に、物書きはどうなるのか?
この記事は私の声で書いた。いくつかのタイプミスの修正以外変更はせず、キーボードは使っていない。こんな悪文なのは多分そのためだろう。
これは私の実験である。立てた仮説は、キーボードのない世界が文章を変えるかということ。そして間違いなく、ある時点でわれわれはキーボードレスの世界に住むことになるだろう。
今現在、それは小さな存在だ。ボイスコントロール、モーションコントロール、そしてアイトラッキングシステムなどだ。革新的企業、例えばMaluubaやMindMeldはすでに、われわれの声を最高に面白い方法で利用している。
しかし、Siriへの簡単な問いかけや音声テキスト変換などは、いずれ長い文章の入力にも取って代わるだろう。これは始まりにすぎない。やがてテクノロジーが十分進歩し、文脈を理解するようになれば、書き手たちは自分の思いを話すようになる。
エッセイや記事やスピーチ原稿を書くことは、声に出して言うよりずっと長い時間がかかる。そしてこれが、一般に文章を読むほうが言葉を聞くよりも優れている理由だ。たしかにしゃべる方が早くて効率がよい。これは、ペンと紙に対するキーボードについて言われたのと同じ議論だ。
書くことは、完全に声を切り離す。書くことによって、脳から取ってきた考えは直接、恒久的に文章の状態になる。ただしその前には削除。書き直し。削除。書き直し。
誰かと話す時、あなたは口から出ていく一語一句に責任がある。そこに削除はない。あなたの考えは最初の最初から正しくなければならない。人々が、謝ったり何か複雑な議論をする時メッセージやメールを送り、手紙さえ書くのはそのためだ。常に自分の思った通りに話すことは困難である。
最近Paul Grahamが、話すことと書くことの違いについて書いた。彼はこのようにうまく説明している。
真に優れた話者であることは、優れたアイディアを持っていること無関係なばかりか、さまざまな意味でその反対方向へと人を動かす。例えば私は講演する時、事前に原稿を作っておくことが多い。それが間違いだとは知っている。予め書かれた内容を講演すると、聴衆の心を掴むのが難しいことを私は知っている。聴衆の注意を引く方法とは、自分の全神経を相手に向けることだが、予め書かれた原稿を読む時、あなたの注意は常に聴衆とスピーチとに二分される。これは暗記していても同じだ。聴衆を引き込みたいなら、言いたいことの骨子以上は用意せず、個々の文はアドリブで行くべきだ。しかし、もしそれをやると、それぞれの文について考えるのに費やす時間は、それを話すのにかかる時間だけしかない。時として、生の聴衆に向かって話すことの興奮によって、新しい物事を考えつくこともある。しかし、概して書く時ほどにはアイディアを生み出さない。書く時は、一つの文にいくらでも時間をかけることができる。
要するに、優れたアイディアはそれを口にすることからではなく、書くことによって生まれる。それは、音もなく紙へと移される静かな考えからやってくる。
文章が美しいかどうかは問題ではなく、優れたアイディアは生き残る。真の問題は、われわれがライターとして、いかに適応するかである。
われわれは、世界で唯一古代キーボードから離れられない市民になるのだろうか。それとも、自分の考えを明瞭かつ美しく話せるように、十分早く考える術を身につけるのだろうか。
あるいは、日常われわれが書く、削除する、書き直す、ためのソフトウェアが作られる可能性の方が高いかもしれない。
確かなことは時間がたたなければわからないが、私が唯一間違いなく知っていることがある。私がこの記事をしゃべるのには、一切修正をしなくても、書くよりはるかに時間がかかった。
【日本語版注: 訳文は残念ながら音声入力ではない。実際に音声入力された英文に興味のある方は原文を参照されたい】
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(翻訳:Nob Takahashi)


