Facebookを「民主主義」と呼ぶのは民主主義に対する侮辱だ
もし投票が組織を民主化するのなら、中国は民主主義国家だ。同国民は(比較的力のない)地元候補を選挙することが許されている。ある組織を「民主的」と呼ぶことは、そこで極く一部の個人が彼らの経験の一面に基づき、限定的な事前に選ばれた候補リストから選んでいるのであれば、自己統治の根幹をなす概念に対する侮辱である。Facebookによる、ユーザー情報を系列サービス(即ちInstagram)と共有することに関する「投票」を取り止めるという最近の決定は、これを民主主義の終焉だと非難する市民権運動グループによる怒れる群衆を生んだ。職業ライターの一人として、私はこれを(よくても)メディアの煽りだと断言し、評論家たちは民主主義の理論を学ぶ必要があると考える。
“democracy”という言葉は古代ギリシャのなだらかな起伏の丘陵で生まれた。地元の地域を意味するギリシャ語、”deme” (Δ?μο?)と”kratos” (κρ?το?)に由来し、時間と共に「人々のルール」へと変化した。合衆国と同じように、ギリシャによる自己統治の実験は、抑圧者と哲学的予言者らによる指導に対するクーデター成功の後に築かれた(ギリシャにとって建国の父(founding father)に最も近い存在であるクレイステネスのおかげ)。
その発足以来民主主義には裁判制度、市民政治協議、および代議制度からなる洗練されたシステムがある。Facebookにはいずれも存在しない。誰もZuckerbergを選んでいないし、スパマーを排除するためのユーザー陪審員もいない。
投票は民主主義ではなく、民主主義は投票することではない
初めて自己統治の実験者をしたギリシャ人は、大衆の参加なくして民主主義はないことを知っていた。時として立法機関が業務を遂行するために6000人の定足数が必要だった(市民の約14%)。
Facebookでは、プライバシー・ポリシーに関する最初の投票への参加率は1桁に遠く及ばなかった。「おそらく気付いてもいないだろうが、水曜日までみなさんにはFacebookで投票する権利があった」と、MashableのChris Taylorが書いている。彼によると、わずか0.038%のユーザーが足を運んだだけだった。「これと比べれば米国の中間選挙(平均投票率40%)の参加率は大勝利に見える」
Facebookの「民主主義」と同じくらいバカバカしいことに、投票と自己統治の合体は深刻な国際関係問題を引き起こした。「選挙至上主義とは、選挙さえ行えば政治的行為をエリートたちによる平和的競争へと導き、その勝者に公的正当性が与えられるとする、米国の為政者や一部の学者が支持する信条である」とスタンフォードの過激な政治学教授、Terry Karlは言っている。彼は世界中を旅して、暗殺された市民らの骨を集め、過去の独裁者たちを国際法廷で告発することに協力している。「一つのイデオロギーとして、選挙は、民主主義のあらゆる側面より上へと押し上げられている」
投票が民主主義と同義だという言及すら、たった今、すぐにでも消えるべき慣習であると言えば足りるだろう。
おそらくFacebookは〈もっと〉民主化する
歴史を通じて、投票の欠如はしばしば集団により大きな力を与えてきた。実際、憲法を改正してアルコールを禁止したのは女性運動家からなる能弁な集票組織だった(禁酒法は修正第18項、参政権は第19項)。「女性の政治的権利を手に入れることに成功した時が、18世紀以降どの時代よりも政治的権利に価値のない時代だったことは、当時の女性運動にとって不幸だった」と婦人参政権論者のSuzanne La Foletteが、19世紀以降の政治的関心の歴史的衰退の最中に書いている。
あるいはスイス。この国ではあらゆる主要な決定に対して国民が直接投票する。スイス人は、国際協約から移民まで何十という問題について最大年に7回投票する。しかしスイスの投票率は、先進国中最低水準の30%前後だ。スイスの住民投票の多くは、反対派と協力しあうことによって磨かれるため、投票日が来るまでに多くの不一致が解消されていて、両派とも投票で争うよりはるかに大きい影響を受ける。
実際、歴史と世界を通じて、会話は投票よりもはるかに民主的だ(影響力がある)。「この投票機構は、一定数のコメントによって引き起こされるが、その結果コメントの質よりも数を奨励するシステムになっていた」とFacebookのコミュニケーション担当副社長、Elliot Schrageが書いている。
これはFacebookがコメントに耳を傾けることを保証するものではないが、投票がなくなることによってユーザーの意見による影響が抑えられることはもちろんない。せめて、いずれ民主主義と投票の合体がおとぎ話の悪人のようになることを願いたい。それが存在すると信じるのをやめれば、それはいなくなる。
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(翻訳:Nob Takahashi)


